リノアは眠りの中でも風の音を聴き続けていた。夢の中、木々がざわざわと囁き合い、遠くで誰かが呼んでいる。それがシオンの声なのか、母の声なのか、それともまったく別の何かなのか。はっきりしないまま、彼女は目を覚ました。 朝の光が木枠の窓から射し込み、部屋を淡く照らしている。けれど、その優しい光でさえも、昨夜の村人たちの声を振り払うことはできなかった。 エレナの曖昧な警告、クラウディアの謎めいた言葉、レオとカイルの軽率な態度……。それら全てがシオンの死や森の異変に繋がっているように思えてならない。 リノアはベッドから起き上がり、籠を手に取った。 今日はいつもの薬草採取の仕事より、シオンの足跡を追いたいという思いの方が強い。シオンが最後に森の中で何を見たのか、何をしていたのか、その答えを探さずにはいられない。 光が差し込む窓を背に、リノアは扉を開けて外の世界へと足を踏み出した。 リノアは村の外れを抜け、シオンが何度も足を運んでいた北側の一角へ向かった。そこは村人たちがあまり近づかない場所だ。木々が密に生い茂り、薄暗い雰囲気が漂っている。 小径の入り口に差し掛かった時、その場の空気が変わったのを感じた。風が木々の枝を揺らし、低い唸りのような音が辺りに響いている。鳥の声が少ない。代わりに葉擦れの音だけが聴こえる。 リノアは苔に覆われた足元を慎重に踏みしめながら進んだ。地面は湿り気を帯び、靴底にまとわりつく泥が歩みを重くする。 シオンのことが頭によぎる。シオンはこの道を何度も歩き、自然の秘密を追い求めていた。ノートに描かれた数多くの植物のスケッチや観察の記録が鮮明に蘇る。「シオン、ここで何を見つけたの?」 リノアの呟きは虚しくも風に流れて木々の間に消えていった。 太陽が木々の隙間から漏れ、地面に光を落としている。そのまだらな輝きの中、リノアは足を止めて周囲を見渡した。 ここはシオンが倒れていた場所に近い。 村人たちは「落石に巻き込まれた」と語っていた。しかし本当にそうなのだろうか。 風が再び吹き抜け、リノアの髪を揺らした。土と葉の香りが鼻先をくすぐる中、リノアはさらに奥深く進むことを決めた。 この場所には、まだ何かが隠されている。そう思わずにはいられなかった。
リノアは小径の奥に足を踏み入れた。湿った土が靴底に食い込み、冷たい朝霧が足元を這う。木々の間を抜けると、目の前に小さな空き地が開けた。そこにはシオンの痕跡が残されていた。地面に置かれた石の輪、その中心に残る焦げ跡……。 灰は風に散らされ、石の隙間にわずかに残るのみ。これは焚き火の跡だ。近くには折れた枝が無造作に転がっている。 シオンがここにいた。リノアは胸が締め付けられる思いをしながら、空き地に足を踏み入れた。「あれは何だろう?」 風に揺れるその一片にリノアの心がざわつく。リノアは急いで近づいて、震える手で紙片を拾い上げた。シオンの乱雑な文字……。《龍の涙》 リノアは眉を寄せ、紙片をじっと見つめた。これは村の儀式で使われる種子の名だ。 龍の涙について母が語ったことがある。暖炉の前で、母は目を輝かせて言った。「リノア、龍の涙は神秘的な力を宿しているんだよ。癒しもすれば、壊すこともできる」 母の声が、今も耳に鮮明に残る。 リノアは紙片を握り、霧が漂う空き地を見回した。すると、空き地の端、木の根元に引っかかった布切れが目に入った。 リノアの息が止まる。あれはシオンがいつも首に巻いていた青いスカーフだ。 そのスカーフが赤黒い染みで覆われている。血ではないか。 震える手でスカーフを手に取ると、乾いて硬くなった染みが指先に冷たくざらついた感触を残した。 シオンの死は落石による事故だと聞かされている。村人たちがそう説明し、エレナも「詳しいことはわからない」と首を振っていた。だが、この血は何だろう? 本当に落石で亡くなったのだろうか? リノアはスカーフを握り、目を凝らした。青い布に染み込んだ赤黒い痕が、シオンの笑顔と重なる。 笛を彫りながら笑った日、一緒に森で薬草を探した日──あの穏やかな記憶が、目の前の血の染みとあまりにも対照的で、胸が苦しくなる。すべてが遠い過去になりつつある中で、このスカーフだけが現実を突きつけてくる。 どれだけ無念だったことだろう。一人寂しく散ったシオンのことを思うと息が苦しくなる。 本当に事故だったのだろうか? 周囲の人たちの反応、残された紙片。それらを踏まえると、ここで何かが起きたと見るのが自然ではないか。 この血が示すものは、村人たちが語る単純な死では説明できない何かのような気がする。 シオンの最期に何があっ
石の輪の中で灰が舞い上がり、まるで生き物のように渦を巻く。風に乗った灰が朝陽に照らされてキラキラと輝いている。 リノアは目を細め、その不思議な動きを見つめた。すると、風が地面を撫でるように吹き抜け、石の輪の近くで苔に覆われた土がわずかに崩れた。 まるで呼び起こされたように姿を現した一つの小さな木箱…… やがて風が止み、森が再び静寂に包まれた。霧が晴れ、朝陽が再び大地を照らしていく。 木箱の表面は粗く削られ、角が少し欠けている。素朴で無骨な作りをした木箱だ。 リノアは木箱にゆっくりと近づき、木箱を見下ろした。これはシオンの手作りで間違いない。箱の表面に小さな渦巻き模様が刻まれている。 シオンがこれを手に持って笑う姿が頭に浮かぶ。──この木箱が、ここにあるということは……。何者かの手に渡らないようにシオンが木箱を隠したことを意味するのではないか。 箱の蓋には小さな留め金があり、中に何か入っている感触がある。「シオン……開けるよ」 そう言って震える手で木箱を開けた時、朝陽が木々の隙間から差し込み、リノアの周辺を淡く照らした。 足元に小さな水たまりがある。朝露や霧の水分が地面のくぼみに集まったその水面が、まるで水鏡のように揺れている。リノアのスカーフを握る手が映り込み、血の染みが赤黒い影となって揺らめく。 リノアが水面を見つめた瞬間、水鏡が歪み、血の影が渦を巻くように動いた。その中心に映し出されたのは、笛を手に森を見上げるシオンの姿……。「シオン……」 リノアの胸に不思議な感覚が走る。シオンが教えてくれた力──自然の兆しを感じ取る星詠みの力だ。星は見えずとも、朝陽や風、そしてこの水鏡がシオンの意図を映し出している。 木箱の出現は偶然ではない。 水鏡に浮かんだシオンの姿が私に囁いたのだ──「龍の涙を守れ」と。 リノアは木箱の中をそっと覗き込んだ。折り畳まれた紙と、小さな種子が静かに横たわっている。 村の儀式で使われる種子と同じ形──しかし、どこか異質に見える。表面が光を薄く放ち、指で触れると微かな熱が伝わってくる。 リノアはそれを手のひらに載せて、じっと見つめた。 種子は小さく、掌に収まるほどだが、ずっしりとした重みが感じられる。まるで生きているかのように微かに脈動している。 これはただの種子ではない。生命の鼓動、自然の力が宿った
リノアは木箱の底に横たわっていた紙片を広げ、シオンの掠れた字に目を凝らした。乱雑な字がびっしりと並んでいる。インクが滲み、震えるような筆跡がシオンの焦りを伺わせる。 リノアは貪るように、その一行一行に目を走らせた。『龍の涙は自然の均衡を保つ力を持つ。大地の深みで脈を打ち、水の鏡に映り、風の囁きに乗る。木の根に刻まれた命のしるしだ。村の儀式はその力を引き出すためのもの――だが、それは半分しか真実を告げていない。使い方を誤れば破壊を招く。その涙は救いか、裁きか。守れ、リノア。星が沈む前に』 文章はそこで途絶え、紙の端はまるで燃え尽きたように黒ずんでいた。 リノアは自分の名が紙に書かれていたことに驚きを隠しきれなかった。シオンは私が木箱を手にすることを予見していたのだろうか……。 そう言えば、シオンがよく口にしていた言葉があった。──自然は求める心に寄り添う── 水鏡に浮かんだシオンの姿が私に囁いている──「龍の涙を守れ」と。 紙を持つ手が震え、リノアの目から涙がこぼれ落ちた。リノアの涙が紙に落ち、小さな染みを作っていく。「シオン、一人で抱え込んでいたんだね。もっと私がしっかりしていたら……」 リノアは紙を胸に抱き、地面に崩れ落ちた。 シオンは種子の力を知り、一人で守ろうとしたのだ。そして、それがシオンの命を奪うことになった。 誰かがこれを奪い取ろうとしている。一体、何の為に……。 龍の涙に秘められた未知の力──それがシオンが追い求めていたもの。 途切れた言葉の先には一体、何が書いてあったのか。リノアは種子と紙を握り締め、霧の奥を見据えた。 シオンは一人、霧深い森の奥で何かに立ち向かった。死の間際、叫び声を上げたのか、それとも静かに運命を受け入れたのか。想像するだけで胸が張り裂けそうになる。 リノアはシオンの紙をもう一度見つめた。 やはり、その先には何も書かれてはいない。空白がシオンの沈黙を映しているかのように。しかし文字はなくても、龍の涙の鼓動が私に囁いている。シオンが命を賭けた理由が、ここにあると。 シオンの遺志は自然と共にある。村を守るため、龍の涙の秘密を隠すため、彼は命を賭けたのだ。「シオン……龍の涙って何なの? 私にどうして欲しいの?」 リノアは空を見上げ、朝陽が雲の隙間から差し込む光に目を細めた。リノアの呟きが霧に溶
リノアは木箱とスカーフを手に空き地を後にした。木々の隙間から漏れる夕陽が木箱に淡い光を投げかけ、表面に刻まれた細かな模様を浮かび上がらせる。それはまるで誰かが忘れ去った秘密の鍵のように見えた。 森の小径を戻る足取りは重く、頭の中はシオンの言葉でいっぱいだった。「『龍の涙』は自然の均衡を保つ力を持つ。だが使い方を誤れば破壊を招く。その涙は救いか、裁きか」 昨日、薬草採取で森を歩いたときの異変……。森の水が減り、草が乾いて萎れていた。あの不自然な静けさ──鳥のさえずりさえ途絶え、森が息を潜めているようだった。シオンの文字に込められていた焦りは、そこから来ているのかもしれない。 幼い日に母が姿を消し、そして今、シオンが亡くなった。私はついに天涯孤独の身となってしまった。 森の奥で母が私に微笑みかけた、あの優しい笑顔。そして木漏れ陽の中、手を差し伸べてくれた温もりが今も胸の奥に焼きついている。母の声が遠くから聞こえるようだ。「リノア、大丈夫だよ」と。 シオンはいつも森で動植物を観察していた。陽が沈むまで土に触れ、葉の形をなぞりながら静かに微笑み、一つ一つ丁寧にスケッチを描いていたシオン。 村のために何かをしようと夜遅くまで灯りの下で目を輝かせていた。疲れも見せずにノートに想いを刻んでいたあの姿が思い起こされる。「シオン……。何が起こってるの?」 自然の異変とリノアの断片的な記憶が糸を手繰るように絡み合う。リノアの呟きは風に攫われ、森の奥へと消えた。 シオンの意図は、まだ掴めない。だが、この種子がただの物ではないことだけは確かだ。 私にはシオンほどの知識はない。それでも、私にも何かできることがあるのではないか。シオンが遺した言葉。そして龍の涙──それらに込められた想いを解き明かさなければならない。 夕陽が木々を血のように赤く染め、霧が徐々に薄れていく。葉の変色が一層目立ち、乾燥した草がその光景をさらに際立たせる。 やはり森は弱っている。 エレナに会おう。シオンの研究ノートを読めば、真相に辿り着く手がかりが見つかるかもしれない。 村の外れに近づく頃、夕陽が地平線に沈みかけ、茜色の光が森の輪郭を柔らかく縁取っていた。遠くで村の灯りが揺らめき、子供たちの笑い声が風に乗って届く。それは平和な響きだった。しかしリノアの胸には別の音が鳴り響いていた。
リノアは村の入り口に立ち、エレナの家へと向かった。 村の広場に差し掛かった時、鍛冶屋のカイルが炉を叩く音が響き、女たちが井戸端で洗濯物を干しているのが見えた。 普段ならリノアも挨拶を交わすところだが、今日は足早に通り過ぎた。頭の中はシオンのノートと龍の涙で埋め尽くされている。 エレナなら何か知っているはずだ。彼女はシオンの恋人であり、シオンの研究を手伝っていたのだから。 エレナの家に着いたリノアは扉を軽く叩いた。中から物音が聞こえ、エレナの声が返ってくる。 リノアは扉を開け、家の中へ入った。薬草の匂いが漂い、机の上にはシオンの研究資料やノート、乾燥した植物類が散らばっている。 エレナは薬草をすり潰しながらこちらを見た。「リノア、森はどうだった?」 エレナの落ち着き払った声を聞き、リノアは一瞬、戸惑い目を伏せた。だが、すぐに籠を床に置き、木箱とスカーフを取り出した。「エレナ、これを見て。シオンのものだよ」 エレナの手が止まり、彼女は立ち上がってリノアに近づいた。スカーフの血の染みを見た瞬間、エレナの目が鋭くなった。「血? どこで拾ったの?」「森の北側。シオンの焚き火跡があったの。そこに木箱もあって、中にこれが入ってた」 リノアは種子を差し出した。エレナはそれを手に取り、目を細めて観察した。「これ、儀式の種子と違うものだね。熱いし、光ってる。シオンが言ってたのは、これのことだったのか……」「シオンが何て言ってたの?」 リノアの声色が鋭く変わった。 エレナは種子を机に置き、目を閉じて黙り込んだ。彼女の手が微かに震えている。シオンの記憶が蘇ったのだろう。エレナの心情を察して待っていると、やがてエレナの唇が小さく動いた。「彼は『龍の涙』に何か隠された力があるのではないかと疑ってた。私には詳しく教えてくれなかったけど、とにかく危険だって警告してた」「うん。それは、この紙にも書いてあった。『誤れば破壊を招く』って。シオンはこれを守ろうとして亡くなったんじゃないかな」 リノアはそう言って、紙をエレナに手渡した。 エレナは紙をそっと受け取り、その上に刻まれたシオンの掠れた文字に目を落とした。 その瞬間、エレナの表情が硬直し、沈黙がその場を包んだ。紙を握る指先に微かな力がこもり、心の奥底で何かが揺れ動いているようだった。 部屋の中を満た
リノアはエレナの顔を見つめ、彼女が何か重要なことを知っているのではないかと感じた。シオンの死を悼むだけではない、何か深い確信がエレナの瞳の奥に隠れているように見えたのだ。 エレナは目を伏せ、静かに頷いた。「そうね。私も龍の涙を守ろうとして亡くなったんだと思う。事故にしては不自然だったし。シオンの身体は見つかったけど、落石の跡が少なくて……。誰かが証拠を隠滅したのだと思う」 やはりそうだったのか。エレナも、シオンの死が誰かの手によるものだと疑っていたのだ。今までのエレナの素振りからは、その真意を感じ取ることはできなかった。事を荒げたくなかったのかもしれない。「龍の涙を手にしようとしている人たちって、エレナ、誰のことだか分かる?」 エレナは一度首を振り、考え込むような表情を見せたが、やがて何かを思い出したかのように口を開いた。「最近、森の近くで怪しい影を見たっていう噂があった。カイルなら何か知っているかも。彼、外部の商人たちと取引することが多いから」「カイル……」 カイルの印象はあまり良くはない。カイルは自然保護や村の伝統を重んじるどころか、それらを軽んじるところがある。 村の外から持ち込まれる品々を仕入れるために、森の薬草や木材を惜しげもなく切り崩して利益に変えている。そのような姿を何度も目にしてきた。 シオンのように森を愛し、その声を聞こうとする気持ちなど、カイルは持ち合わせてはいない。 リノアの胸にカイルへの不信感が冷たく沈んだ。 それでも、怖がっているわけにはいかない。「私、シオンの遺志を継ぐと決めたの。自然を守るって」 リノアはエレナを見据えて言った。「シオンがリノアを信じていた理由が分かるよ。リノア、カイルに会うの?」 エレナは目を細め、静かに微笑んだ。 エレナの瞳の奥に宿る真剣さが、シオンの死を悼む悲しみと、リノアへの信頼を映し出している。リノアの胸の奥で何かが熱くなった。「リノア、気をつけてね。カイルはシオンの死に直接絡んでいないと思うけど、何らかの形で関わっている可能性ならあるから」 エレナは心配そうにリノアを見つめた。「私も協力するから心配しないで」 エレナの手がリノアの肩にそっと置かれる。その温もりがリノアの心に染み渡った。 リノアは慌てて目を瞬かせて、こぼれ落ちそうになった涙を誤魔化した。 一人で
リノアはエレナの家を出て村の広場へ向かった。夜が深まり、星が空に散らばっている。冷たい風がリノアの髪を揺らす。 静けさに包まれた村の広場が目の前に広がっている。鍛冶屋の炉から漏れる赤々とした光が闇を押し返し、金属を叩く鋭い音が響き渡る。火花が飛び散り、暗い夜空の下で命を持つかのように一瞬輝いた。 炉のそばで汗だくになりながら鉄を叩いているカイル。その腕には力が宿り、額には熱気が染み込んでいる。彼の動きには迷いがない。炉の炎が彼の輪郭を鮮やかに映し出していた。 リノアは足を止め、カイルの姿を見つめた。炉の熱気が顔に当たり、心臓が速く鼓動する。 カイルはただの鍛冶屋ではない。村の外部との交易を仕切る男であり、時にその取引に疑念を抱かせる存在でもあった。 リノアの胸にカイルに対する不信の影が忍び寄る。村の伝統や自然を軽視するカイルの姿はシオンの信念とは真逆のものだ。 それでも真実を追う決意がリノアの背中を押す。カイルと向き合わなければならない。たとえそれが危険を伴うものだとしても。「カイル、今いい?」 リノアは鍛冶屋の入り口で声を掛けた。夜の闇に溶け込むようなその声に、鍛冶場の音が一瞬静まる。 カイルがゆっくりと顔を上げた。炉の赤い光が彼の顔を照らし、汗が額から滴り落ちている。重たそうな手を鉄槌から離し、その鋭い目がリノアをとらえた。「お前か、リノア。こんな時間に珍しいな。何か用か?」 カイルの声は穏やかだが、どこか探るような響きがあった。 リノアは一瞬、躊躇したが、リノアは籠から枯れた葉を取り出し、カイルに差し出した。「これ、森で見つけたの。最近、草が乾いてて、木も弱ってる。シオンの死と関係あるんじゃないかって思って」 リノアの声はかすかに震えていたが、その目には強い意思が宿っている。 カイルは葉を受け取り、指で軽く揉んで感触を確かめた。「確かに変だな。乾いて脆い。だが、シオンの死と何の関係があるんだ? あいつは落石で死んだって話だろ」 リノアは息をのみ、目を細めてカイルを見つめた。「本当にそう思う? シオンは自然のことを調べていた。誰かに邪魔されたんじゃないかな」 カイルは炉に視線を戻すと、無言のまま鉄を叩き始めた。平静を装っているが、リノアはカイルの目が一瞬、鋭くなったのを見逃さなかった。 金属を打つ音が暗い夜空に響き、火
リノアはエレナが指し示した方角を見据えた。 神殿の周囲を徘徊するかのように揺れる影。それが人の形をしていることに気づいた時、二人の中に緊張が走った。「誰だろう……?」 リノアが囁くように言った。 シオンが研究所に残していたペンダントや鉱石類……──シオンは、あの場所に訪れていたのではないか。もし、あの品々が神殿で見つけたものだったとしたら……すべてが繋がる。 シオンが何を調べていたのか、ようやく輪郭を帯び始めてきた。「研究所からそう遠くない場所なのに、シオンは焚き火をしてまで夜を過ごしていた。やはり、あれは動植物の観察のためだけだったわけではないようね」 そう言って、エレナは思案するように神殿を見つめた。 帰るべきか、それとも未知の領域へと足を踏み入れるべきか——迫りくる夜の静寂の中、森に漂う不穏な気配が二人の決断を曇らせる。 迷いが生じるその刹那、人影はふっと薄闇へ溶け込むように消えていった。 二人は丘の縁に立ち、神殿の方向を見つめた。月光が神殿の尖塔を照らし、まるでそこだけが別の世界に属しているかのように見える。 シオンは好奇心に駆られ、神殿に何かを探しに行ったのではないか? そして、ここで何かを知ってしまった……。 未知への期待と謎が解けるかもしれないという予感が、リノアの胸にふつふつと湧き上がってくる。 リノアは神殿の輪郭をゆっくりと追った。月光を浴びた古びた石造りの壁が、まるで時間の流れから切り離されたかのように佇んでいる。「エレナ、また……」 人影が再び姿を現した。 この辺りの村の者ではない。装いも佇まいも、どこか異質な雰囲気をまとっている。「どこの人たちなんだろうね」 エレナが息を潜めて言った。 人影はゆっくりと神殿の中央へと進み、柱の陰に差し掛かった時、ふと動きを止めて、振り返った。──他にも誰かいる。 顔は闇に溶けてはっきりとは見えない。しかし、そのわずかな仕草から、ただ佇んでいるだけではない事だけは確かだ。 柱の陰に消えた人影が、今度は神殿の別の壁際から現れた。まるで、リノアとエレナの様子を探るかのような慎重な動きを見せながら……。「近づいてる!」 沈黙を破ったエレナの声が一瞬にして空気を張り詰めた。 エレナの指が矢筒へと伸び、確かな動作で矢を引き抜く。迷いはない。鋭い視線で人影の動きを追い
森を包む光は柔らかくなり、空には橙色の残響が漂っていた。昼と夜の境界がゆっくりと溶け合う頃、リノアとエレナは星見の丘へと歩みを進めた。 陽が完全に沈むまで、あまり時間はない。西の空はゆっくりと深い青へと変わりつつある。 木々の間を抜ける風が優しく肌を撫でる。だが、その静けさの中で、ふと違和感が生じた。──風の音ではない。枯れ葉を踏みしめる足音が聞こえる。 リノアは立ち止まって、視線を音が聞こえた方へ向けた。エレナも気配を察知したのか、手をゆっくりと弓の近くへ持っていく。「エレナ、今の音……聞こえた?」「うん、私も聞こえた。近くに誰かいるのかも」 エレナの鋭い瞳が森の奥を探る。 リノアは息を呑みながら木の影へと身を潜めた。敵かもしれない——もし見つかれば、二人だけで対応するのは難しい。「あっ」 リノアの足が一本の根に引っかかり、思わず躓きそうになった。その瞬間、エレナが素早くリノアの腕を掴んだ。力強くも優しいその手がリノアの腕を強く握り閉める。「リノア、落ち着いて。大丈夫だから」 エレナは微笑みながら言った。その穏やかな声と温もりが、リノアの焦る心を静めていく。 二人の発した音に驚いたのか、枯れ葉の隙間から何かが顔を覗かせた。「なあんだ、シカか」 リノアが驚きつつも安心した様子で呟いた。 音が聞こえた方角と一致している。あの音の正体は、このシカで間違いないだろう。「危険を冒してまで、こんなところに……」 エレナが慈しみの目を向けた。 そう言われてみれば、最近、シカの姿をよく見かけるようになった。村の近くにまで来なければ食料に在りつけなくなったのだろう。村の周辺で草木が減った原因の一つだ。 落ち着きを取り戻したリノアとエレナは、シカの姿に一瞬の安堵を覚えながらも、胸に残るざわめきを振り払うように歩みを再開した。 星見の丘への道は木々の間を縫う細い小径の先にある。 風が葉を揺らし、さらさらとした音が二人の足音に混じり合う。その穏やかな空気とは裏腹に、リノアの心は落ち着かないままだった。 シオンの焚き火の跡、そして不自然な引きずった跡——それらの記憶が頭を離れない。 シオンは森の異変を追ううちに、思いもよらない危険な存在に近づいてしまったのではないか? 丘へと続く最後の坂を上る頃、空はすでに深い青へと変わり始めていた。
リノアの視線が焚き火の跡から外れ、周りの地面に向けられた。「エレナ、これ……なんだろう」 リノアの声に反応したエレナが地面を凝視する。 不自然な線が土に残されている。誰かが重いものを引きずったような跡だ。——だが、シオンは決してこのような乱暴な動きをする人ではなかった。「シオンのやり方にしては……」 リノアはそう呟きながら、胸の鼓動が速まるのを感じた。誰かがここに来たのかもしれない。 シオンの研究所からそう遠くないこの場所で、シオンが焚き火を灯し、夜を過ごした理由。それは単に動植物を観察するためだったのだろうか? シオンの心は常に自然と共にあり、森の一部かのように振る舞っていた。だが、この引きずった跡は、シオンの性格を考えると説明がつかない不自然さがある。 エレナがしゃがみ込んだまま、引きずった跡に指を這わせた。その途中で微かな色の違いに気付いたエレナが息を呑んだ。「リノア……これ、血の跡かもしれない」 リノアも膝をつき、地面をじっと見つめた。 赤黒く乾いた血の痕が不規則に途切れながら続いている。動物のものだろうか。傷ついた獣を誰かが運んだ……その可能性も考えられる。 リノアは痕跡を追うように視線を動かすと、近くの草むらに何かが引っかかっているのを見つけた。「エレナ、これ……動物の毛じゃない?」 リノアは慎重に手を伸ばして、草むらからその毛を摘み取った。柔らかいが、どこか荒々しい感触が指先に伝わる。 エレナがリノアの手元を覗き込み、毛をじっと見つめた。エレナの眉がわずかに動き、その表情に確信の色が浮かぶ。「これは……ラヴィアルの毛だね」 エレナの声はどこか緊張感を帯びている。その言葉にリノアは目を見開いた。「ラヴィアル?」 リノアが問いかけると、エレナは頷きながら、毛を指先で撫でるように確認した。「ラヴィアルはこの森のもっと奥深くに住んでいる獣よ。鋭い角を持っていて、夜行性。通常は人前に現れないけど、傷を負ったり、追い詰められたりした時にはその足跡を残すことがある。確か他の村で大切に扱われていた動物だったはず。リヴェシアだったかな」 エレナはラヴィアルの毛を守るように両手で包み込むように持ち、慎重に小さな布袋に入れた後、周囲を見渡した。その動作には弓使いとして培った鋭敏な洞察力が感じられる。 森の静けさの中で、二人の間に
リノアとエレナはシオンの研究所の扉を押し開け、北の小径の奥へ向けて足を踏み入れた。 陽は西へ傾き始め、森の中に柔らかな夕暮れの気配が漂い始めている。リノアとエレナは、ゆっくりと伸びていく木々の影を感じながら歩を進めていた。 時間に追われるわけではない。しかし、この言いようのない気持ちは一体何だろう。穏やかな情景とは裏腹に、森に立ち込める空気には言いようのない不穏な気配が漂っている。 リノアは腰の革帯に差し込んだシオンの笛を無意識に握り締めた。「この笛は僕、そのものだ。リノア、一つあげるよ」とにっこり笑ったシオンの笑顔が忘れられない。その時以来、シオンの笛は私の大切な宝物であり、心の支えとなっている。 シオンが笛を吹けば、その透き通った音色に誘われるように小鳥たちが集まった。シオンの心はいつも自然と共鳴し、まるで森の一部のように溶け込んでいた。 シオンは実の兄として、リノアに優しさと安心を与えてくれた、かけがえのない人だった。そのシオンの死はリノアの心に癒えない傷を刻んだ。 シオンは森の奥で何を見つけたのか? どうして命を落とさなければならなかったのか? その答えがすぐに見つかるわけではない。 それでもリノアの胸にはシオンの秘密を解き明かしたいという熱い想いが渦巻いていた。 隣を歩くエレナが年上らしい落ち着きと、凛とした瞳で前を見据えている。だが、その凛とした表情の奥には、シオンの死に対する深い悲しみが隠れていることをリノアは感じ取っていた。 エレナとシオンは恋人同士だった。二人が寄り添い、言葉を交わす姿は自然で、お互いの存在が当たり前のように感じられた。だけど、シオンはもういない。喪失の痛みを押し隠すように、エレナは前だけを見つめて歩いているのだ。 木々が迫る小径を抜けた時、リノアの足がぴたりと止まった。 地面に焦げた土の跡が点在し、黒ずんだ石が辺りに散乱している。冷たく湿った感触が手に伝わり、鼻をつく焦げた臭いが森の清涼な空気と混じる。 それは、ここで確かに炎が揺らめいていた証だった。 リノアは膝をつき、石を一つ拾った。「これ、シオンの焚き火の跡だ」 リノアは石の表面を撫でて、ざらついた焦げ跡を確かめて言った。 以前、森で見たものと造りが同じだ。他の村人たちは食料を調達しに来るか、単に通り過ぎるだけ。この場所で火を焚いて、夜を過
箱の中には薬草の束が整然と収められている。その薬草は不思議と枯れることなく、時の流れに逆らうように鮮やかな色合いを保ち、まるで何かを守るように静かに横たわっている。 その中心で銀色に輝くペンダント── リノアは淡く輝くその光に目を奪われながら、ペンダントを手に取った。指先が触れた瞬間、リノアは胸の奥深くで何かが高鳴るのを感じた。その感覚が波紋のように全身に広がって行く。 突然、リノアの視界が揺らぎ、目の前に幻想的な光景が広がった。見たこともない光景だ。 漆黒の夜空に無数の星が煌めき、静かに瞬いている。その光を浴びるように広がる広大な森。それらの木々を風が一本一本、優しく撫でている。 森の奥深くには神殿がひっそりと佇み、石壁に紋様が刻まれていた。 その神殿の入口に、小さな影。 可愛らしい目をしたリスがこちらを眺めている。長い時を超えて語りかけるような視線……。 リスは神殿の前で動かず、小さな二本足で立ち、尾をゆったりと揺らしている。やがて星の輝きと共鳴するかのように淡く光り始めたかと思うと、その光は星々に呼びかけるように広がって、そして消えていった。 その場で立ち尽くすリノア。「リノア、どうしたの?」 エレナの声が静寂を破った。 リノアは瞬きをし、視界にぼんやりと映し出される光景を見て我に返った。「今……何かが見えたの。神殿と星空……そして、リス。リスが私を見つめていた」 現実とは思えないほど鮮やかな光景だった。 一体、何だったのだろうか。 現実の光景だったのか、それとも心の中に浮かび上がった幻だったのか——リノアには分からない。 ただ、その瞬間、胸の奥に何かが目覚めるような感覚があったのだけは確かだ。「リノア、大丈夫?」 エレナが心配そうな顔をして、こちらを見つめている。 リノアははっとして顔を上げたが、その瞳はまだどこか遠くを見つめているようだった。「シオンが、私に何か伝えようとしているのかもしれない」 リノアは自分でもその言葉の意味を完全には理解できていなかった。ただ、目の前に広がった光景が持つ重みを感じていた。「リノア、その光景に見覚えはあるの?」 エレナの問いかけに、リノアは小さく首を振った。「ううん。私、神殿なんて一度も見たことがないし」「神殿か……。何でそんなものを見たんだろうね。確か、山の奥に今は使
ここでシオンは研究に没頭し、時には夜を越してまで続けていた。思い浮かぶのは、彼が満ち足りた笑顔で机に向かっていた姿。部屋のどこを見ても、シオンの存在がいまだにこの場所を支配しているように感じられる。 中に足を踏み入れると、冷たい冬の空気が二人を鋭く包み込んだ。吐息がわずかに白く曇り、室内は静けさとともにひんやりとした湿気を漂わせている。土壁は冷え切り、かすかな霜がその表面にしみ込むように薄く光っていた。 かつてシオンが過ごした時間の痕跡が室内の隅々に残されている。 埃の積もった木肌の上に、くっきりと浮かび上がる笛の跡。その姿は、まるで時間の狭間に取り残された思い出の影のようだった。「シオンの物、そのまま残してるんだね……」 リノアの囁くような声が、埃っぽい空気の中に溶け込む。 私たちにとって、ここにある全てのものが形見だ。たとえ時が流れても触れた瞬間に過去が蘇る。その儚さが、かえって手を伸ばすことをためらわせるのだ。「手を付けてはいけない気がしてね……。何だか思い出が壊れそうな気がするから」 そう言って、エレナは目を伏せた。 その表情には、どこか切なさと迷いが見て取れる。 リノアはエレナの言葉にじっと耳を傾けた。触れれば壊れてしまいそうな繊細な記憶。その言葉には過去を大切にしたいという想いが含まれている。 リノアはゆっくりと息を吐きながら、視線を落とした。 この部屋に満ちる静けさが、エレナの気持ちと重なり合うように感じられる。 沈黙が流れる中、やがてリノアは目線をさまよわせ、ふと隅に積まれた木箱へと目を留めた。「……あれって何だろう?」 リノアが不思議そうな顔で呟いた。木箱の表面には、リノアが持っている笛と同じ文様が刻まれている。「開けてみたら?」 エレナが言った。「でも……」 エレナの言葉にリノアが戸惑いを見せた。「いいのよ、リノア」 リノアの視線を受け止めるように、エレナはそっと微笑んで言った。 その笑顔には、これまで閉じ込めていた想いが解き放たれたような温かさがある。「ここに来るまで、私はシオンの死に向き合うことを避けていた。でも、このままずっと触れないでいたら、思い出は遠ざかっていくばかり。シオンはそんなことを望んでいないと思うし……ね」 そう言って、エレナは懐かしむように木箱へ視線を落とした。「ほら、リノ
老婆の言葉と傍らに立っていた女性戦士の姿が、リノアの胸に奇妙な違和感を残していた。 二人の目的を探る術もなく、ただ村に向かう二人の背中を思い返すばかりだった。リノアとエレナは、お互いに視線を交わしながら森へと足を進めた。 森は秘密を抱えた古老のように沈黙し、静寂は耳を塞ぐほど深い。リノアとエレナの足音だけが森に響き渡る。「エレナ、鳥がいない……」 リノアの声にはかすかな動揺が滲んでいる。「風も吹いてないね」 エレナは辺りを見渡しながら、弓に自然と手を掛ける。 リノアはエレナの陰で森に意識を向け、空気の流れを感じ取ろうとした。 以前の森は木々の隙間を抜ける風が星の歌を運び、その音色が森全体を輝かせていた。それに比べ、今の森は風のない世界のように淀み、輝きを失っている。 異様な沈黙——まるで生命の躍動を感じない。 リノアはこの現象の異質さを受け止めて、冷静に考えを巡らせた。 リノアの視線が森の奥へ進むほど、不穏な空気がじわりとその影を濃くしていく。まるで森全体が息を潜め、その謎めいた真実を語り出す時を待っているかのように。「クラウディアさんの『森が鳴く』って、何だろうね」 リノアの胸に不安がじわりと広がる。クラウディアの言葉は不気味な予感を残していた。「森が鳴く時、世界の均衡が揺らぐ」 エレナが思い出すように呟き、そして続けた。「変化なんて恐れる必要はないと思うよ。存在している以上、全てのものは絶えず変化をしているものだからね。大切なことは均衡を崩さないことなのだと思う」 森が静寂を破る時、そこには必ず理由がある。 木々のざわめき、風の震え、大地に響く低い唸り──それらは、かすかな予兆として現れ、やがて大きな波へと変わっていく。 それは自然が告げる変化の前触れであり、見えざる力が動き始めた証でもある。いつもと異なることが起きた時は細心の注意を払わなければならない。 その変化がまさに今、目の前で起きている。「エレナ、早く行こう。シオンの研究所へ行けば、何か分かるかもしれない」 シオンの研究所は北の小径の入り口近くにある。 二人は北の小径を急いだ。 リノアとエレナは小道の脇に倒れた木の手前で足を止めた。幹や枝が乾いてひび割れ、砕けた鏡のように散乱している。「つい最近まで立っていた木が……」 エレナが困惑した表情で呟いた。
敗戦後、村の中で囁かれ始めたのは、イリアとカムランに対する「裏切り」の疑念......。「二人は自分たちだけが助かる為に、国の使者と取引をしたのではないか?」 確かな証拠もないまま疑念だけが大きくなり、その噂は瞬く間に広がった。語られるうち、その噂は『裏切り』として既成事実化され、村人たちの心に定着するようになる。 誰もが、そう信じたかったのだろう。やり場のない怒りをぶつける相手として、イリアとカムランは都合が良かったのだ。 だが、私は知っている。 イリアとカムランは最後まで村を守るために戦っていた。二人は裏切ってなどいないことを──。 それにしても、二人は私にリノアとシオンを託した後、どこに消えてしまったのか。人知れず、どこかで戦死してしまったのだろうか。それとも村人の誰かに殺されでも……。 私以外の国の者が村人に調略を持ちかけていたとしてもおかしくはない。扇動された村人が二人を殺害、若しくは捉えて国に差し出した可能性はないだろうか……。 記憶の断片が胸に冷たく突き刺さり、クラウディアの視線がランタンの揺れる光に落ちた。 現時点で考えたところで答えに行き着くことはないか……。情報量があまりにも少なすぎる。 思考の迷路をさまようばかりで、確かな答えはどこにも見つからない。薄暗い部屋の静けさが、焦燥感をより際立たせる。 クラウディアは溜息を漏らした。その時、窓の外で微かな足音が響く。 夜の闇に紛れるような控えめな音が次第に近づき、それに伴って枝が折れる音が鋭く響き渡る。小動物ではない。 クラウディアの背筋に冷たい感覚が走った。 ランタンの光を落とし、窓に近づく。窓を覆う霧が水滴となり、ガラス面を伝い落ちていく。「そこにいるのは誰だ……?」 暗闇の中で何かが動いている。──国、あるいは村の密偵か? 暗闇の中の者に問いかけるが、応答がない。 沈黙が支配する中、突風が吹き、森のざわめきが一層、強まった。その音はクラウディアの心を試し、揺さぶるかのように響いている。 クラウディアの心に不安感が広がっていく。──暗闇に潜む何かが私を見つめている気がする。 クラウディアは窓際からゆっくりと離れ、息を整えた。 ランタンの灯りがわずかに揺れ、淡い光が森をぼんやりと浮かび上がらせている。──本当は、そこには何もないのではないか。私が作
クラウディアは埃まみれの棚から戦乱時の記録を引っ張り出した。 急ぎたい気持ちはある。しかし、ページを捲る手は遅々として進まない。私もまだ心の傷が癒えていないのだ。正直に言って、あまり戦争のことには触れたくはない。 クラウディアの目の前には、まだ目を通していない無数の書物が横たわっている。この中に私が探し求めるものがあれば良いが……。 クラウディアは一層ランタンの光を頼りに、埃まみれの書物に目を落とし、一枚一枚丁寧にページを捲っていった。 リノアとエレナは今、森の奥でシオンの遺物を調べている。あの二人も目を背けたかった過去と向き合う覚悟を決めたのだ。私だけ逃げるわけにはいかない。 クラウディアは古びた羊皮紙の山を捲って、指先に刻まれた過去を追い続けた。読み進めて行くうちにクラウディアは、ある一つの記述に目を奪われた。 黄ばんだ羊皮紙に掠れたインクで、こう記されている。「戦乱末期、名家の戦士が国の使者と密会した。何らかの取引が交わされたと噂される」 クラウディアの息が止まる。 エダンの言っていた「裏切り」とは、これのことだろうか。 記述はあまりに簡潔で、それ以上の詳細な情報は一切、記されていない。──イリアとカムランが国の使者と取引? これは本当か? かつて、私は国の使者として、この村に潜んだ過去がある。 当時、私の使命は村々を分断させ、国の支配を確固たるものにすることだった。 戦乱の最中、国は各地の名家や戦士たちを利用し、領地を拡張しようとしていた。私の使命は村々の結束を揺るがし、内部分裂を促すこと。名家の戦士であるイリアとカムランも、その標的のひとつだった。 私は何度もイリアとカムランに密会を持ちかけた。国へ従うことで得られる利益を二人に提示し、戦乱の中でも安泰を約束する交渉を持ちかけた。「国の庇護を受ければ、村は攻撃を免れる。お前たちが率先して受け入れれば、誰も傷つかずに済む」 しかし、彼らの答えは変わらなかった。「あなたたちに支配されるということは、死ぬことと同じだ。その要求は受け入れることはできない」 その誇り高き二人が村人たちを裏切るはずがない。村を守ることが彼らにとって唯一の指針だったのだから。 この記述の指す「国の使者」は私ではない。私がイリアとカムランに持ちかけた交渉は決裂している。 では、誰が? 交わした