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星々と笛の歌 ③

last update Last Updated: 2025-03-21 12:58:31

 夜が更け、家に戻ったリノアは、ベッドに横になってシオンの形見である木彫りの笛を手に取った。窓の隙間から冷たい夜気が流れ込み、カーテンが揺れている。

 リノアは笛の表面を指で撫でながら母の背中を思い浮かべた。あの優しい声、森の中で見せてくれた笑顔……。全てが今は遠い記憶となっている。

 リノアは目を閉じ、風の音に耳を澄ませた。もし、また自然の声が聞こえるなら。何か教えてくれるのではないかと期待しながら。

 窓の隙間から忍び込む冷たい夜気が彼女の頬を撫でる。

 この風の中に混ざった微かな音は何だろう? 人の声ではない。もっと深く、根源的な響き……。

 リノアはベッドから跳ね起き、窓辺に駆け寄った。霧と雲の切れ間から無数の星が輝く夜空が見える。

 その光に吸い寄せられるように、リノアの瞳が星を捉えた時、かつてシオンが教えてくれた星詠みの記憶が蘇った。

「自然は星の言葉なんだ。リノア、耳を澄ませて星を見つめてごらん」

 リノアは笛を握り、星の光に目を凝らした。北の空で三つの星が微かに揺れている。それらは他の星とは異なるリズムで瞬いている。

 星が私に何かを伝えようとしている……。

 衝動に駆られたリノアは笛に唇を当てた。

 深く、そして沈み込んだ笛の音が風に乗り、霧の中を漂って行った時、北の空の星々が一斉に輝きを増した。まるで笛の音に呼応するかのように星々が歌い出す。

 リノアは震える指先に力を込め、笛を吹き続けた。音が夜空に溶け、霧が揺れる。

 リノアの耳に響く、微かな囁きの中で何かが蠢き、浮き彫りになっていく。それはシオンの声でも母の声でもない。自然そのものが語りかけるような声だ。

 木々のざわめき、小川の流れ、遠くの鳥の羽音が笛の音色と共鳴している。

 リノアは笛を下ろし、星空を見上げた。

「これが……星詠み?」

 シオンが教えてくれた力。星と自然を通じて感じる言葉にならない感覚。笛の音がその扉を開いたのだ。

 霧が揺れ、星の光が彼女を包み込んでいく。自然の声はまだはっきりしない。でも、確かにそこにある。シオンの遺志か、母の想いか、それとも村を襲う危機の予兆か?

リノアの心に小さな火が灯り、夜の静寂に希望が響き合った。
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     儀式が始まろうというこの大切な瞬間でさえ、カイルの存在はリノアの心をかき乱す。 その鋭い視線に縛られるように、リノアはその場に立ち尽くした。 カイルは自然を軽んじ、村の伝統に対して無頓着な男だ。その態度は昔から私たちに不信感を抱かせていた。シオンの死や森の異変についても、彼が何かを知っているのではないかという思いが私やエレナの中に根強く残っている。 あのカイルの態度……。間違いない。カイルは何かを知っている。 昨夜のカイルの言葉が不気味な残響となって脳裏に蘇る。「死の直前、シオンは森で誰かと会っていた」 リノアの胸の内で一つの結論が形を成した。シオンは誰かに殺されたのだと。 村人たちがゆっくりと祭壇の周りに集まり始め、厳かな雰囲気に包まれた。 子供たちは母親のスカートの裾をぎゅっと握りしめ、若者たちは一つに固まり身を寄せ合っている。不安な表情を見せていないのは老人くらいなものだ。 老人たちは杖を地面に突き、どっしりとした姿勢で祭壇を見守っている。彼らの視線は、どこか揺るぎない信念を映し出していた。 背中に集まる無数の視線を感じながら、リノアは祭壇に目を落とした。 例年なら、ここでの儀式は自然への感謝を捧げるものだった。だが今年は違う。シオンの死が村に暗い影を落とし、森の異変が人々の心をざわつかせている。 村の長であるクラウディアが、ゆっくりと杖をつきながら祭壇に向かった。霧が白髪をかすかに濡らし、深く刻まれた皺が長い年月を思わせる。一歩、歩く度に杖が床を叩く音が響き渡り、広場を覆う静けさを一層引き締めた。 クラウディアの目はどこか遠くを見つめ、厳粛な空気をまとっている。その威厳に満ちた姿に村人の視線が自然と吸い寄せられた。 祭壇の前で立ち止まったクラウディアは、杖を強く地面に突いた後、村人たちを見回した。「皆、集まってくれたことに感謝する。自然は我々を育み、守ってきた。その恩恵に感謝し、共に森を守り、大地と調和して生きることを誓おう。今日、我々は自然に祈りを捧げ、森の恵みを願う」 クラウディアの声は低く、霧に溶けるように広がっていき、周囲からざわめきを消し去った。静寂が広場を支配する。 リノアはクラウディアの隣に立ち、青銅の器を見下ろした。器の水面が微かに揺れ、朝陽の光が彼女の目に鋭く差し込む。 シオンの死後、クラウディアから

  • 水鏡の星詠   朝陽の中の誓い ①

     リノアは村の広場に集まった人々の中、静かに立ち尽くしていた。朝霧が地面を覆い、湿った土の匂いが鼻腔を満たす。足元の草は冷たく、粗末な靴に水滴が染み込んで彼女の足を冷やしていた。 空はまだ薄暗く、朝陽が霧の向こうでぼんやりと輪郭を描いている。 広場の中央には、儀式のための祭壇が設けられていた。太いオークの枝が円形に組まれ、その内側に平たい石が積み上げられた簡素なものだ。だが、その素朴さの中にも、長い年月を経た重みが感じられた。 祭壇の頂上には、先祖代々受け継がれてきた青銅の器が置かれている。器は古びて緑青が浮いており、表面には龍が空を舞う姿や星々が連なる模様など、細かな彫刻が施されている。 リノアはその器を見つめ、シオンの不在に心を痛めた。この儀式を行うのは、いつもシオンだった。シオンが村人たちの前で自然との絆を呼び起こす姿が思い起こされる。 リノアは深く息を仕込み、祭壇に目を移した。 器の縁から微かな水滴が、ぽつりぽつりと落ち、祭壇の冷たい石を静かに濡らしている。その音が張り詰めた空気の中に小さな波紋を生むようだった。 祭壇の上に置かれた器には澄み切った水が並々と張られ、朝陽の最後の光がその表面で踊っている。光の破片が水面を駆け巡り、まるで器自体が生きているようだ。 水面は鏡のように澄み渡り、霧の白と空の青を映しながら、どこか別の世界と繋がっているかのような気配を漂わせている。その奥底で何かが眠り、あるいは目を覚まそうとしている――そんな錯覚を覚えた。 風が頬をかすめ、器の水面にかすかな細波を生む。その小さな動き一つ一つが過去の声となり、私に何かを語りかけている。この水面の鼓動を感じ取らなければならない。 シオンほどではないにしても、私にもできることがあるはずだ。リノアはそう信じていた。シオンが命をかけて大切にしたこの村と自然を守りたい。その純粋な思いだけが、今の彼女を支えている。 村人たちのざわめきが耳に届く。年寄りたちの呟き、囁き合う声……、村人たちの視線が私に注がれている。 村人たちは、本当にシオンの代わりを務めることができるのかと思いながら、私を見ているのだ。重い視線が肩にのしかかる。 しかし、その喧騒は、どこか遠くで鳴っているように感じられた。まるで現実から切り離され、リノアだけが異なる次元に取り残されたかのように。「守れ、

  • 水鏡の星詠   森に潜む不協和音 ④

    「俺には関係ねえよ」 そう言い切るカイルの声は低く、わずかに硬さを帯びていた。「シオンは妙なことに首を突っ込んでたんだ。自然がどうとか、種子がどうとかな」 言葉を切り、炉を見つめるカイル。その炎の揺らぎにリノアの不信感が重なった。「確かにあいつが死ぬ前、森で誰かと会ってたって話は聞いたよ」「誰と? 何をしてたの?」 問い詰めるリノアの声にカイルは目を細め、短く首を振った。「森の奥で何かを企んでる奴らだ」 カイルはそう口にすると、視線を外し、再び火をかき混ぜ始めた。「シオンが何か渡したか、奪われたか、俺は詳しくは知らねぇ」 リノアの胸に冷たく鋭いものが突き刺さる。しかし彼女は更に一歩踏み込んだ。「狙っているものって、『龍の涙』じゃない?」 その名を口にした瞬間、カイルの目が驚きの色に揺れた。炉の火をかき混ぜる手に力が込められ、硬く握りしめられた鉄棒が微かに軋む音を立てた。 飛び散る火花が暗闇を切り裂き、一瞬だけリノアの顔を浮かび上がらせた。 その沈黙は重く、鋭利な刃物のように二人の間に降り立ち、言葉以上に深い意味を宿した。「お前、何を言ってるんだ? 『龍の涙』って儀式に使われる種子だろ。あんなものが何だって言うんだ? そんな大層なもんじゃねえだろ」 カイルはため息をつき、炉の近くで金槌を手に取り、その柄を握りしめた。カイルの指が強く食い込み、木の柄がわずかに軋む音を立てた。 カイルがリノアを冷たい目で見つめる。 リノアはさらに問いただそうとしたが、カイルが先に口を開いた。「シオンがそれに絡んだなら、自業自得だろ」「自業自得じゃない! シオンは村を守ろうとしたんだよ!」 リノアの声が鋭く響き渡る。 カイルは目を伏せ、金槌を静かに炉の横に置き、落ち着き払った声で言った。「お前、深入りすんなよ。シオンみたいになりたくなければな」 その言葉にリノアは息を呑んだ。カイルの目は冷たく、警告の色が濃い。リノアは枯れた葉を籠に戻し、後ずさった。「ありがとう、カイル。気をつけるよ」 リノアは短く答え、鍛冶屋を後にした。夜風が鋭く吹き抜け、彼女の髪を揺らす。暗い空に散らばる星々が、どこか遠くから静かに見守っているようだった。 村の灯りが遠くに見える頃、リノアは足を止め、森の方向を見た。木々が黒い影となって揺れ、風がざわめいている。 冷

  • 水鏡の星詠   森に潜む不協和音 ③

     リノアはエレナの家を出て村の広場へ向かった。夜が深まり、星が空に散らばっている。冷たい風がリノアの髪を揺らす。 静けさに包まれた村の広場が目の前に広がっている。鍛冶屋の炉から漏れる赤々とした光が闇を押し返し、金属を叩く鋭い音が響き渡る。火花が飛び散り、暗い夜空の下で命を持つかのように一瞬輝いた。 炉のそばで汗だくになりながら鉄を叩いているカイル。その腕には力が宿り、額には熱気が染み込んでいる。彼の動きには迷いがない。炉の炎が彼の輪郭を鮮やかに映し出していた。 リノアは足を止め、カイルの姿を見つめた。炉の熱気が顔に当たり、心臓が速く鼓動する。 カイルはただの鍛冶屋ではない。村の外部との交易を仕切る男であり、時にその取引に疑念を抱かせる存在でもあった。 リノアの胸にカイルに対する不信の影が忍び寄る。村の伝統や自然を軽視するカイルの姿はシオンの信念とは真逆のものだ。 それでも真実を追う決意がリノアの背中を押す。カイルと向き合わなければならない。たとえそれが危険を伴うものだとしても。「カイル、今いい?」 リノアは鍛冶屋の入り口で声を掛けた。夜の闇に溶け込むようなその声に、鍛冶場の音が一瞬静まる。 カイルがゆっくりと顔を上げた。炉の赤い光が彼の顔を照らし、汗が額から滴り落ちている。重たそうな手を鉄槌から離し、その鋭い目がリノアをとらえた。「お前か、リノア。こんな時間に珍しいな。何か用か?」 カイルの声は穏やかだが、どこか探るような響きがあった。 リノアは一瞬、躊躇したが、リノアは籠から枯れた葉を取り出し、カイルに差し出した。「これ、森で見つけたの。最近、草が乾いてて、木も弱ってる。シオンの死と関係あるんじゃないかって思って」 リノアの声はかすかに震えていたが、その目には強い意思が宿っている。 カイルは葉を受け取り、指で軽く揉んで感触を確かめた。「確かに変だな。乾いて脆い。だが、シオンの死と何の関係があるんだ? あいつは落石で死んだって話だろ」 リノアは息をのみ、目を細めてカイルを見つめた。「本当にそう思う? シオンは自然のことを調べていた。誰かに邪魔されたんじゃないかな」 カイルは炉に視線を戻すと、無言のまま鉄を叩き始めた。平静を装っているが、リノアはカイルの目が一瞬、鋭くなったのを見逃さなかった。 金属を打つ音が暗い夜空に響き、火

  • 水鏡の星詠   森に潜む不協和音 ②

     リノアはエレナの顔を見つめ、彼女が何か重要なことを知っているのではないかと感じた。シオンの死を悼むだけではない、何か深い確信がエレナの瞳の奥に隠れているように見えたのだ。 エレナは目を伏せ、静かに頷いた。「そうね。私も龍の涙を守ろうとして亡くなったんだと思う。事故にしては不自然だったし。シオンの身体は見つかったけど、落石の跡が少なくて……。誰かが証拠を隠滅したのだと思う」 やはりそうだったのか。エレナも、シオンの死が誰かの手によるものだと疑っていたのだ。今までのエレナの素振りからは、その真意を感じ取ることはできなかった。事を荒げたくなかったのかもしれない。「龍の涙を手にしようとしている人たちって、エレナ、誰のことだか分かる?」 エレナは一度首を振り、考え込むような表情を見せたが、やがて何かを思い出したかのように口を開いた。「最近、森の近くで怪しい影を見たっていう噂があった。カイルなら何か知っているかも。彼、外部の商人たちと取引することが多いから」「カイル……」 カイルの印象はあまり良くはない。カイルは自然保護や村の伝統を重んじるどころか、それらを軽んじるところがある。 村の外から持ち込まれる品々を仕入れるために、森の薬草や木材を惜しげもなく切り崩して利益に変えている。そのような姿を何度も目にしてきた。 シオンのように森を愛し、その声を聞こうとする気持ちなど、カイルは持ち合わせてはいない。 リノアの胸にカイルへの不信感が冷たく沈んだ。 それでも、怖がっているわけにはいかない。「私、シオンの遺志を継ぐと決めたの。自然を守るって」 リノアはエレナを見据えて言った。「シオンがリノアを信じていた理由が分かるよ。リノア、カイルに会うの?」 エレナは目を細め、静かに微笑んだ。 エレナの瞳の奥に宿る真剣さが、シオンの死を悼む悲しみと、リノアへの信頼を映し出している。リノアの胸の奥で何かが熱くなった。「リノア、気をつけてね。カイルはシオンの死に直接絡んでいないと思うけど、何らかの形で関わっている可能性ならあるから」 エレナは心配そうにリノアを見つめた。「私も協力するから心配しないで」 エレナの手がリノアの肩にそっと置かれる。その温もりがリノアの心に染み渡った。 リノアは慌てて目を瞬かせて、こぼれ落ちそうになった涙を誤魔化した。 一人で

  • 水鏡の星詠   森に潜む不協和音 ①

     リノアは村の入り口に立ち、エレナの家へと向かった。 村の広場に差し掛かった時、鍛冶屋のカイルが炉を叩く音が響き、女たちが井戸端で洗濯物を干しているのが見えた。 普段ならリノアも挨拶を交わすところだが、今日は足早に通り過ぎた。頭の中はシオンのノートと龍の涙で埋め尽くされている。 エレナなら何か知っているはずだ。彼女はシオンの恋人であり、シオンの研究を手伝っていたのだから。 エレナの家に着いたリノアは扉を軽く叩いた。中から物音が聞こえ、エレナの声が返ってくる。 リノアは扉を開け、家の中へ入った。薬草の匂いが漂い、机の上にはシオンの研究資料やノート、乾燥した植物類が散らばっている。 エレナは薬草をすり潰しながらこちらを見た。「リノア、森はどうだった?」 エレナの落ち着き払った声を聞き、リノアは一瞬、戸惑い目を伏せた。だが、すぐに籠を床に置き、木箱とスカーフを取り出した。「エレナ、これを見て。シオンのものだよ」 エレナの手が止まり、彼女は立ち上がってリノアに近づいた。スカーフの血の染みを見た瞬間、エレナの目が鋭くなった。「血? どこで拾ったの?」「森の北側。シオンの焚き火跡があったの。そこに木箱もあって、中にこれが入ってた」 リノアは種子を差し出した。エレナはそれを手に取り、目を細めて観察した。「これ、儀式の種子と違うものだね。熱いし、光ってる。シオンが言ってたのは、これのことだったのか……」「シオンが何て言ってたの?」 リノアの声色が鋭く変わった。 エレナは種子を机に置き、目を閉じて黙り込んだ。彼女の手が微かに震えている。シオンの記憶が蘇ったのだろう。エレナの心情を察して待っていると、やがてエレナの唇が小さく動いた。「彼は『龍の涙』に何か隠された力があるのではないかと疑ってた。私には詳しく教えてくれなかったけど、とにかく危険だって警告してた」「うん。それは、この紙にも書いてあった。『誤れば破壊を招く』って。シオンはこれを守ろうとして亡くなったんじゃないかな」 リノアはそう言って、紙をエレナに手渡した。 エレナは紙をそっと受け取り、その上に刻まれたシオンの掠れた文字に目を落とした。 その瞬間、エレナの表情が硬直し、沈黙がその場を包んだ。紙を握る指先に微かな力がこもり、心の奥底で何かが揺れ動いているようだった。 部屋の中を満た

  • 水鏡の星詠   失われた足跡 ⑤

     リノアは木箱とスカーフを手に空き地を後にした。木々の隙間から漏れる夕陽が木箱に淡い光を投げかけ、表面に刻まれた細かな模様を浮かび上がらせる。それはまるで誰かが忘れ去った秘密の鍵のように見えた。 森の小径を戻る足取りは重く、頭の中はシオンの言葉でいっぱいだった。「『龍の涙』は自然の均衡を保つ力を持つ。だが使い方を誤れば破壊を招く。その涙は救いか、裁きか」 昨日、薬草採取で森を歩いたときの異変……。森の水が減り、草が乾いて萎れていた。あの不自然な静けさ──鳥のさえずりさえ途絶え、森が息を潜めているようだった。シオンの文字に込められていた焦りは、そこから来ているのかもしれない。 幼い日に母が姿を消し、そして今、シオンが亡くなった。私はついに天涯孤独の身となってしまった。 森の奥で母が私に微笑みかけた、あの優しい笑顔。そして木漏れ陽の中、手を差し伸べてくれた温もりが今も胸の奥に焼きついている。母の声が遠くから聞こえるようだ。「リノア、大丈夫だよ」と。  シオンはいつも森で動植物を観察していた。陽が沈むまで土に触れ、葉の形をなぞりながら静かに微笑み、一つ一つ丁寧にスケッチを描いていたシオン。 村のために何かをしようと夜遅くまで灯りの下で目を輝かせていた。疲れも見せずにノートに想いを刻んでいたあの姿が思い起こされる。「シオン……。何が起こってるの?」 自然の異変とリノアの断片的な記憶が糸を手繰るように絡み合う。リノアの呟きは風に攫われ、森の奥へと消えた。 シオンの意図は、まだ掴めない。だが、この種子がただの物ではないことだけは確かだ。 私にはシオンほどの知識はない。それでも、私にも何かできることがあるのではないか。シオンが遺した言葉。そして龍の涙──それらに込められた想いを解き明かさなければならない。 夕陽が木々を血のように赤く染め、霧が徐々に薄れていく。葉の変色が一層目立ち、乾燥した草がその光景をさらに際立たせる。 やはり森は弱っている。 エレナに会おう。シオンの研究ノートを読めば、真相に辿り着く手がかりが見つかるかもしれない。 村の外れに近づく頃、夕陽が地平線に沈みかけ、茜色の光が森の輪郭を柔らかく縁取っていた。遠くで村の灯りが揺らめき、子供たちの笑い声が風に乗って届く。それは平和な響きだった。しかしリノアの胸には別の音が鳴り響いていた。

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